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タイトル:率土之濱-大三国志 ジャンル:戦略SLG
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「無限界」バージョン武将更新予告

2022/10/21

主公の皆様、こんにちは!

    「無限界」バージョンの実装に伴い、新たな陣営「晋」も登場します。その時代には、多くの英傑が名を残し、輝かしい物語を紡ぎました。この度、その時代の趣を少しでも楽しんでいただけるよう、新武将を実装します。

 

【全シーズンに新武将を追加】

10月26日定期メンテナンス終了後、以下の武将がすべてのシーズンに追加されます。

【★5·晋·司馬炎】、【★5·晋·司馬師】、【★5·晋·司馬昭】、【★5·晋·文鴦】、【★5·晋·杜預】、【★5·晋·王元姫】、【★5·晋·衛瓘】、【★5·晋·鍾会·SP】;

【★4·魏·嵆康】、【★4·魏·劉伶】、【★4·魏·阮籍】、【★4·晋·山濤】、【★4·晋·向秀】、【★4·晋·阮咸】、【★4·晋·王戎】、【★4·晋·司馬攸】、【★4·晋·文虎】;

【★3·晋·成済】、【★3·晋·馮紞】、【★3·晋·田続】、【★3·晋·王業】。

【★5·晋·司馬炎】

    司馬懿の孫。司馬昭と王元姫の嫡男。晋の建国皇帝。三国の統一に成功し、諡号は武皇帝。

    最初は父の勲により官となり、北平亭侯に封じられた。その後は中撫軍となり、新昌郷侯に進封され、晋の世子に立てられ、撫軍大将軍を拝命した。それから魏元帝の曹奐に禅譲を迫って皇帝の位を奪い、国号を晋とし、西晋と呼ばれる。即位後、司馬炎は無為而治という寛容な政策を推進し、戦乱や曹魏の苛政に苦しむ庶民を休養させ、社会を繁栄させたことでその治世は「太康の治」と呼ばれた。

 

【★5·晋·司馬師】

    司馬懿と張春華の長男。司馬昭の兄。司馬炎の伯父。雅にして風采に優れ、沈毅にして大略多し、落ち着いた性格の持ち主。

    曹芳の時代には、散騎常侍、中護軍に任命され、官員の抜擢を厳格に行った。高平陵の変で、司馬師は密かに死士を3000人ほど有しており、司馬懿が曹爽に勝つのに大きな功績を立てた。司馬懿の死後、大将軍、都督中外諸軍、録尚書事に任命され、軍事権力を一手に握り、曹魏最大の権臣となった。

    朝廷で廃立を行い、高貴郷公・曹髦を皇帝に立てた。毌丘倹・文欽の反乱を平定した後、戻る途中で病没。西晋王朝の創始者であり、わずか48歳で死亡し、諡号は忠武。その後、晋景王に追尊され、西晋の時に晋景帝に追尊され、廟号は世宗。

 

【★5·晋·司馬昭】

    司馬師の弟。司馬炎の父。三国時代の曹魏の権臣。西晋王朝の創始者の一人。司馬昭は早年に父の司馬懿と共に蜀漢に対抗し、嘉平4年に都督となり、東関で呉と戦った。司馬師の病没後、司馬昭は兄の位を継いで権力を一手に握り、軍を率いて諸葛誕の謀叛を鎮圧した。魏甘露5年、魏帝の曹髦は怒って側近の人に「司馬昭の心は、道行く人でも皆知っている」と称し、自ら召使いを率いて挙兵し、司馬昭に迎撃した。皇帝弑逆の後、司馬昭は実権を掌握し、曹奐を魏元帝に擁立した後に蜀を滅ぼした。

 

【★5·晋·文鴦】

    本名は文俶、幼名は「阿鴦」。文鴦という名で伝えられている。文欽の子で、文虎の兄。魏晋時代の名将。

    文鴦は武芸の才に富み、司馬師が廃立を行った後、父の文欽に従って毌丘倹と共に淮南で挙兵し、司馬氏に反旗を翻した。少量の兵力で司馬師の本営に衝撃を与え、司馬師の病気を悪化させ、司馬師の死亡を間接的に加速させた。

    敗戦後に呉へ逃亡し、父の文欽に従って軍隊を率いて諸葛誕の謀叛を支援した。文欽が諸葛誕に殺害されたため、文鴦と文虎は再び司馬昭に帰順した。

    西晋時代、平虜護軍に任命され、涼・秦・雍の三州の軍事を監督し、禿髪樹機能という鮮卑の首領を大いに打ち破り、天下に名を轟かせた。

 

【★5·晋·杜預】

    三国の魏晋時代における軍事家、戦略家、律学家。

    曹魏の尚書僕射・杜畿の孫、散騎常侍・杜恕の子。杜恕は司馬懿と不仲のため、杜預も長い間不遇をかこっていた。司馬昭が権力を握っていた時、高陸公主を娶り、尚書郎となり、父祖の爵位である豊楽亭侯を継いだ。

    司馬炎の滅呉戦略を積極的に支持し、羊祜が亡くなる前にその後任として杜預を推挙した。そこで、杜預は鎮南大将軍、都督荊州諸軍事に任命され、滅呉の戦いでの統率者の一人で、その功績によって当陽県侯に封じられた。その後、司隷校尉に任じられて特進の位を加えられ、在任中に死去した。

    杜預は博学多才で、賈充と共に『晋律』の制定に当たり、注解を行った。彼が著した『春秋左氏経伝集解』は現在まで伝えられている。水利を興り、講武に勤め、「杜父」と呼ばれた。多才多芸のため、「杜武庫」とも呼ばれる。明朝の前に、文廟と武廟に同時に入った唯一の人。

 

【★5·晋·王元姫】

    文明王皇后、諱は元姫。西晋時代の皇后。曹魏の司徒・王朗の孫娘。中領軍・王粛の娘。

    洛陽中郎将である司馬昭に嫁ぎ、司馬炎と司馬攸を生んだ。先見の明を持ち、鍾会の反乱を予言した。

    晋武帝・司馬炎の即位後、皇太后として崇化宮に居住し、質素倹約を提唱し、後宮の表率として、みずから実践して手本を示した。

    泰始4年(268年)に王元姫が崩御し、年は52歳で、諡号は文明。晋文帝・司馬昭と崇陽陵に合葬された。

 

【★5·晋·衛瓘】

    魏晋時代の重臣、書家。早年は曹魏尚書郎を務め、散騎常侍、侍中、廷尉を歴任した。魏の蜀征伐の戦いで、鎮西軍司として持節して軍隊を監督したことがある。蜀漢が滅亡した後、命を受けて鄧艾を逮捕し、後に鍾会、姜維の反乱を平定した。田続に鄧艾父子を殺させたことで、名将の杜預に批判された。功績で鎮東将軍に任命され、徐州の諸軍事を都督し、菑陽侯に封じられた。西晋時代、爵位を進めて公となり、征東将軍、征東大将軍、征北大将軍と昇進し、青州刺史、青州牧、幽州刺史を歴任し、青州・幽州では数々の功績を残した。後に徴召して尚書令を拝し、侍中を加えられ、司空、太子少傅、太保、録尚書事を歴任し、朝堂では大きな影響力を持っていた。賈南風が起こした政変で、詔を偽造した楚王司馬瑋に対抗しようとせず、一族もろとも誅殺された。衛瓘は草書に長け、索靖と共に「一台二妙」と称された。その書道の影響は極めて大きかった。

 

【★4·魏·嵆康】

 

【★4·魏·劉伶】

 

【★4·魏·阮籍】

 

【★4·晋·山濤】

 

【★4·晋·向秀】

【★4·魏·阮咸】

 

【★4·晋·王戎】

    竹林七賢、魏晋時代の有名な名士、かつ玄学を代表する七人で、山陽県の竹林でよく酒を飲み、歌っていたことから、その名が付けられた。「七賢」とは、嵆康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、王伶、阮咸の七人。七人とも老荘の学を得意とし、清静無為を唱え、自然の成り行きに任せるという主張を持つとされるが、それぞれの考えに異なる点もある。政権を握る者に協力しないことを主張したため、司馬氏から政治的な迫害を受け、やがて七人は瓦解された。嵆康は殺害され、阮籍は世間から逃れるために気が狂ったふりをし、劉伶、向秀、阮咸は一時的に公職に就いたが、誰もあまり実績を残せなかった。山濤と王戎は司馬氏に身を寄せ、功成り名を遂げ、高い地位にのぼった。

 

    今回の武将更新に際に、各種の召募も調整される予定です。明日には具体的な調整内容が公開される予定です。

    上記の内容については、ゲーム内に実装された更新内容を基準としてください。

    今後とも『率土之濱-大三国志』をよろしくお願いいたします!

 

  溥天の下、王土に非ざるは莫く。
  率土の濱、王臣に非ざるは莫し。

    百家に縦横し、長風に乗り波を切って進もう!

『率土之濱-大三国志』運営チーム

 

 

 

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